ウォシュレットの「おしり」は許せても「やわらか」は受け入れることができない
僕はお腹が弱い。
コップ2杯の牛乳に壊されてしまうくらい弱いお腹を持って生まれてきた人間が僕だ。
アイスを1日に2つ食べると猛烈な腹痛に襲われることが約束されている。
ギュルルルルという鈍い音が鳴り響く。もうこれがめちゃくちゃしんどい。
子を産む痛みは分からないけど、他の人よりは苦しみながらうんこしてきた自負がある。
お腹を壊すと分かっていても、牛乳もアイスも大好きだから、僕は覚悟してお腹を壊す。そして苦しみながらうんこをするのだ。
僕はこの腹痛と一生向き合っていかなければならない。
そんな僕だからこそ、トイレと過ごす時間は人よりも長くなり、トイレに対する愛情は便器に貯められた海よりも深い。
家族と過ごしてきた時間、友達と過ごしてきた時間、そしてトイレと過ごしてきた時間。どれも僕にとっては大切な思い出ばかりだ。
忘れもしない。あれは初めてウォシュレットに出会った小1の夏。
アパートから新築の一軒家に引っ越した我が家の新しいトイレにはウォシュレットがついていた。
初めてのウォシュレット、好奇心と恐怖が僕を包み込んでいた。
ドキドキ。ドキドキ。
興奮したまま、僕はトイレに備え付けられた「ビデ」を押した。
ちんちんがびしょびしょになった。
恐る恐る、隣にある「おしり」を押した。正解はこちらだったのだ。
まるで雷に打たれたような、いや、水流に尻の割れ目を打たれたような衝撃を受けた。
これがウォシュレットか、すごい、すごすぎる。
だが、これで本当にきれいになっているのか?
僕はどうしても「水」に全幅の信頼を預けることができていなかった。拭かなくてもいいのだろうか、と。
僕は疑っていたのだ、僕の身体の60%を構成する「水」を。
その後、白いまま水分だけを吸収したトイレットペーパーが疑いを晴らしてくれた、水は完璧だった。
うんこし終わってウォシュレットをしたら、その刺激でまたうんこが出た。
これは今の僕から言わせれば素人だ。だが、あの時はなにもかも初めてだったのだ。
ウォシュレットに頼らずに排便を終わらせることのできない者は括約筋を鍛えよ。
それから15年間、順風満帆なウォシュレットライフを送ってきた僕だが、最近になってどうしても許せないことがある。
ウォシュレットの「おしり」は許せても「やわらか」は受け入れることができないのだ。
「ビデ」に対して「おしり」なのはもう許した。なんで「おしり」のほうだけ丁寧語やねん、「おビデ」にするか「しり」にしろ、みたいな怒りはもう収まった。
が、「やわらか」は未だに訳がわからない。
なぜなら、おしりは例外なく「やわらかい」からだ。
やわらかいものを濡らすボタンの名前が「やわらか」。
納得できない。おしりがやわらかいなど、そんなことは言われなくてもわかる。
だから僕の中のルール、それは絶対に「やわらか」を使わないこと。
目にすることすら腹立たしい。
いつも通りうんこをした僕は、決して「やわらか」を直視しないように目を逸らし、感覚を頼りに隣のボタンを人差し指で押す。
ちんちんがびしょびしょになった。